Lambent インタビュー 松井大樹 ②
ラムベントインタビュー、松井大樹の第2回です。広島で今でも深く記憶に残るマルゲキガツンの最終公演についてや、ガツン解散後の演劇とのかかわり方について話を聞きました。
「大切な場所」だと痛感した最終公演
―松井さんからもお話がありましたが、マルゲキガツンは動員3000を目標に3年以内で達成できなければ解散というとてもセンセーショナルなコピーで活動されていました。私自身とても印象に強く残っているのですが、内部にいた人間としてその目標について当時どう感じていましたか?
とんでもない膨大な目標だけど、必死になって頑張ればなんとかギリギリ届くんじゃないかっていうそういうラインだったとは思いますね。やり遂げることはできなかったんですけど。
―最終公演の動員はどれくらいだったのですか?
1600から1800の間ぐらいだったと思うんですけど、不運なことに近年稀にみる大雪に降られそれで動員が減ったっていう。ただそれを差し引いても、やっぱり届かなかったところではあるから。僕自身そうなんですけど、まだ何かできたんじゃないかっていうのはありましたね。公演が始まって何回かやった段階でうまくいかなかったという結果が出ていたので。ただ誰も口にはしなかったですね。だからこそ、公演が終わった千秋楽のカーテンコールのときにみんな泣いてました。僕自身も、裏で。これで終わりなんだってわかっていたので。今まであんな風に成し遂げれなかったことで、これで終わりなんだっていうので泣いたのは初めてでしたね。それだけの苦労があったからこそ、やっぱりやり遂げたかった。自分自身にとっても大事な居場所だったってのはそのとき痛感しましたね。
―だいたい平均してどのくらいの動員があったのですか?
僕が入った段階ではガツンができて1年半ぐらい。丁度3年の折り返しぐらいで入ったんですけど、その当時はホール公演をやっていて。うろ覚えですけど500~800ぐらい動員してたと思いますね。
―コンスタントに動員がありメディアにも露出があって、グッズもたくさん作って物販されていましたよね。広島で一番メジャーに近い劇団だったんじゃないかと思うのですが、そこまでのものがあるとやっぱりこのまま続けようとはなりませんでしたか?
続けたほうがいいって意見があったのは確かで、そういう判断もあったんですが、ただそれで続けてしまったら最初に掲げた目標自体が無になってしまう。その公約だけはやっぱりどうしても守らなきゃいけない。公約があったからこそ頑張れたんだから、それを破棄するってことはできない。だからやっぱり解散するって形になりました。続けたいってのはもちろんありましたけど、それだと公約自体なんだったんだろうって話になってしまうので。
自分のできる限りのことを常に最大限行う
―それでマルゲキガツンさんは志半ばで解散という形になってしまったわけですが、松井さん自身は解散を機に演劇活動をやめようとは思わなかったのですか?
そういう考えはなかったですね。解散してわりとすぐに演劇引力廣島のほうから「水曜日の食卓」っていう舞台のスタッフで声かけられまして、それに入りましたんで。そのまま怒涛のように。そこの公演のスタッフで関わったあと次が、ユッキーさん(井上素行)と初めての共演だった天Projectから声がかかって。気づけばそのままあれこれあれこれと関わって続けてという。
―松井さんは役者としてだけではなく、スタッフとしてもたくさんの公演に今まで関わられていますが、どういった点が認められて声をかけてもらっていると思いますか?
いろいろ声かけてくれたある先輩の話だと、一生懸命やってるから一緒にやりたいと思えるんだって。だからいろんな公演に参加するためにも、出来る限り自分の出来ることは一生懸命やっていこうっていう考えがあって。その姿勢を認めてもらえたんだと思います。
―ではスタッフとして他団体に関わる上で一番気を付けていることは何ですか?
メンバーではないけどその時の公演の仲間だと自分では思っていて。区切りが難しいところが多少あります。メンバーじゃないから言っちゃいけない、それは違うだろってのがあるのでそのへんは注意しますね。入りすぎてしまわないように。そのへんの葛藤が多少あります。どこの団体でも共通しているのは、自分の出来る限りのこと、自分のできるスタッフとしてのスキルは全てしっかり使って関わるということです。
―口を出しすぎないように気を付けている?
そうですね。自分自身そういう失敗をしてしまったこともあるので、今はより気を付けています。